南山ガケ物語
現在は、準備工事のため、南山の西部分の急がけは、頂上の樹木が伐採され、崩されてきています。私たちは、私たちが住んでいる
大地の歴史を考え、知る絶好の観察の場所として、危険な箇所は必要な擁護工事をして、残すことを提案してきましたが、現状の
準備工事の様子からは無理になってきているようです。
★ガケ裏ですすむ準備工事↓
なぜ、このような急崖地帯ができたのでしょうか?
南山ガケの誕生と南山の地層の成り立ち、周辺の景観をご紹介します。
最近、乱暴な準備工事で、部分的に崩される前までの「稲城南山のガケ」は、横幅約600メートル、高さは約60メートル。
誕生は、46年前の東京オリンピックの関連工事、特に首都高道路の建設用砂として掘削してできた人工のがけです。
遠く離れた位置から見るとむき出しの地肌が切り立った異様な風景ですが、近くに 来て見ると、東京都内とは思えないスケールの大きい景観が展開します。風にそよぐ草木の音、鳥のさえずりだけが聞こえる静寂な 別天地です。
ギョロ目の考察-残念なことに今は崩されてありません。
崩れて少しなだらかになった土砂の上には草木が生い茂っています。草木の進出を阻む切り立ったむき出しの地肌は、幾重もの
地層が平行に重なった断面をさらけ出しています。その中にあってひときわ目立つのがこのギョロ目。何でこんなに大きなものが埋まっているのでしょう?
実はこれは誰かが作って埋めたのではなく、本来あった地層のなごりなのです。ギョロ目の両端んに本来あった土地が浸食作用によって
削られてなくなり、ギョロ目部分だけが残った。その後富士山や箱根の大爆発により火山灰が降り注ぎ、積もって平らな地表になったと
考えられます。ギョロ目の両端に本来あった土地が浸食されたと書きました。何が浸食したのでしょうか?台地の末端を刻む小さな
流れだったのかも知れません。ギョロ目とそのしたの厚い砂層とのあいだには薄く白い層が走っています。侵食はその層より下には
進んでいません。
ギョロ目の下の厚い砂層は稲城砂層と呼ばれています。下からはい上がってくる植物に隠れて見えませんが、稲城砂層は
60~80メートルの厚さがあると言われています。
ギョロ目などが作られた後、富士山などの火山灰は地表を覆って関東ローム層を作りました。私たちは関東ローム層の上で生活しています。
ギョロ目の両端とギョロ目の上はこの関東ローム層です。(ギョロ目地震も古い時代に堆積したローム層かもしれません。)
稲城砂層は300万年~70万年前に当時の河口の三角州で堆積したものです。当時は関東平野は海の底で、多摩丘陵も多摩川もなく。
古い相模川が稲城近辺で大きな三角州を作り、海にそそぎ込んでいたと考えられています。堆積は長い年月えお掛けておこなわれ、
その結果は幾重もの横の層として見られます。80~50万年前に土地が隆起し、多摩丘陵が生まれました。河口の三角州の一部だった
ところが南山になりました。
石原都知事、石川市長が「南山崖崩壊で、子供が2人生き埋めになって死んだ。―南山が魔の山になると困る。」
という発言は、全く事実と違います。見るからに危険で、異様な崖ですが、土砂採取してから45年がたちますが、基本的な
崩壊はありません。崖の中腹の緑がずい分回復して来ていたことが証拠です。
地質の専門家は「何百万年凝縮した稲城砂層は堅個で、今のところ劣化は基本的に見られない。ただし掘り崩して埋め立てると、
粒子がばらばらになり、きわめて崩れやすく危険」と指摘しています。「ガケが危険だから開発する」という言い方には
根拠がなく、逆に危険だということになります。急崖地域のおよそ85%以上の土地所有者は何故か三井不動産です。