南山の歴史と史蹟

(旧石器、縄文、古代の南山)

南山埋蔵文化財調査では、旧石器時代、縄文時代、古代の住居跡、土坑、段切り遺構などたくさん発掘されました。 南山の地に、1万年前からの人々の暮らしがあったことは、歴史的ロマンをかき立てます。
 これまで稲城では、数知れない縄文・弥生期の遺跡が発掘され、 全部、資料保存として、一部は、平尾の郷土資料室に展示されていますが、大部分は矢野口の保管庫に積まれて眠っています。
南山・縄文の森として現地保存、復元し、等身大で触れ、学習できたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

埋蔵文化財試掘調査箇所(黒塗り)

埋蔵文化財試掘調査箇所(黒塗りの箇所で、都・埋蔵文化財包蔵地に基づいています。)

古代住居跡←南山C1地区で発掘された
「古代住居址(縦穴式住居)」
正面にカマド跡も見える。

集落形成は見られず、大和朝廷の公地公民制度を逃れた人の住居ではとも推量される。




←土坑(獣の落とし穴)の想像図

 




→南山では、数百の縄文時代の「土坑」(獣を捕獲する落とし穴)が発掘された。





(万葉集・東歌と南山)

赤駒(あかこま)を 山野(やまの)に放ち捕(と)りかりて
          多麻の横山 歩(かち)ゆかやらん


―野に放った馬を捕まえることができず、歩いていった夫は、
今頃は多摩の横山を歩いて いるのだろうか・・・・防人(大和朝廷の徴兵制度)として九州へ旅立つ夫を想って詠んだ。


(国指定文化財に匹敵する南山)

 多摩川を挟んだ調布の、上杉方の拠点として築城された『深大寺城址』は、一昨年、「国指定文化財」として保全されました。
中世の山城・小沢城、峰続きの亀山城が連なる“南山”一帯は、戦国時代は、多摩川を挟んで深大寺城に対峙した、 関東覇権を目指した北条方(小田原北条)の重要な軍事拠点でした。
 南山こそ、国指定文化財に指定して、 後世に残す歴史的価値があるはずです。南山一帯は、「つわものどもの夢の跡」(芭蕉の句)です。


(南山は八代将軍・吉宗のお狩場)

百村、内田家は「鷹番」の屋号で呼ばれています。矢野口、長沼、大丸、百村で「御鷹場四ヶ村組合」がつくられ、 農民は鷹狩りの負担、田畑が荒らされ、たいへんな苦労が強いられました。


(ありがた山―4000体の墓石・石仏群)

妙覚寺南側の丘陵斜面に「ありがた山」と呼ばれる4000体を超す、墓石・石仏群があります。多摩川を望む傾斜地に、 4000体の石仏・墓石が並ぶ風景は異様な風景で、首都圏の名物です。昭和14~16年にかけて、宗教団体・日徳海の人々が、 東京駒込一帯の関東大震災で無縁仏をこの地に運び安置したものです。荷車で運びながら 「ありがたや、ありがたや」と念仏を唱えながら運んだことから「ありがた山」と呼ばれるようになったそうです。 現在も、継続して維持管理しています。区画整理事業で、墓石の移転縮小に反対しています。

ありがた山 ありがた山
↑墓石を運び上げる当時(昭和14年)
の日徳海の人々。
(写真で見る稲城今昔より)
↑武家の墓「五輪塔」「宝いん塔」子どもの地蔵墓など、江戸、明治、大正の石仏・墓石 並ぶ風景は首都圏の名所です。




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